【石橋英昭】東日本大震災から2年8カ月たち、ようやく再建が始まる街がある。宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区。内陸移転ではなく、海の近くで現地再建する市の計画が、二転三転した。住民の間には対立と不信感が残る。なぜ、これだけ時間がかかってしまったのだろうか。
■市計画転々 ようやく緒に
日曜日の閖上。道路わきにテーブルを並べ、数人がストーブを囲み、コーヒーを飲んでいた。 ここにあった自宅が流され、夫と息子を津波で失った鈴木幸恵(ゆきえ)さん(63)らの「カフェ」だ。街を懐かしむ人が立ち寄れるよう、週末ごとに開く。あたりは草が茂るだけだ。
この場所を含む海寄りの65ヘクタールが、人が住めない災害危険区域に指定される。隣接する57ヘクタールが居住区域となり、うち32ヘクタールで3メートルの土盛りをする。宅地や災害公営住宅を整え、約2400人が暮らす街をつくる――。これが市の計画だ。
しかし、
仮設住宅からカフェに通う人たちは冷ややかだ。「閖上には戻りたいが、市の言うことは次々変わる。何を信じていいのか」と鈴木さん。遠藤一雄さん(66)は「2年半の時間は何だったのか」。
◇ 震災前の閖上は、5500人が暮らす海辺の街だった。赤貝が水揚げされ、日曜は朝市がにぎわった。最大9メートルの津波でほとんどの住宅が流され、約800人が犠牲となった。
閖上が地元で、歴史ある街の再生に思い入れが強い佐々木一十郎(いそお)市長は2011年10月、現地再建を柱とする
復興計画を策定。市議会も了承した。
ところが住民からは「安全な内陸部に移りたい」との声が続出した。市の住民アンケートでは閖上での再建を望む人は4割を切り、調査のたびに減った。国からも計画が過大と難色を示され、想定人口や面積の縮小を余儀なくされた。待ちきれず、他の地域で家を探す人も相次いだ。
現地再建で規模を縮小した市の修正案がまとまったのは今夏。だが、事業の認可手続きを前に、住民約450人から「(津波をくい止めた)仙台東部道路の西側にも移転先を確保して」とする意見書が出された。逆に、事業に早く着手するよう求める1700人余の署名も提出された。
意見書の採否を議論する県都市計画審議会に出席した佐々木市長は「これ以上復興を遅らせられない」と訴え、計画修正を拒んだ。取材には「被災者の意見を聞くだけでは、将来に責任を持ったまちづくりはできない」と繰り返した。
都計審は3度の審議の末、修正を求める意見書を不採択とし、市の計画に事実上のゴーサインを出した。一方で、住民の意向をもっと反映させよと、「建議」という形で市に異例の注文をつけた。
◇ 今月末には県が、土地区画整理事業を認可する。市の計画は安全性の面で妥当だという専門家は少なくない。だが、清野康子さん(55)は津波の中、自宅2階に取り残された恐怖が消えない。「閖上は大好きだが、もう戻れない」。行政が考える「安全」と住民が求める「安心」とは隔たりがあった。
それを埋める丁寧な対話が必要だったのに、市長は「現地再建ありき」で突っ走った。住民説明会は繰り返されたが、市側のかたくなな姿勢に反発は強まった。住民同士も互いを市長派、反市長派と非難し合い、胸を開いて話し合う機会はなかった。
先が見えない仮設暮らしに住民は疲れた表情を見せる。南部比呂志さん(45)は「早く安定した住まいに移りたい」と、早期の事業認可を求めた1人。「確かに、市には住民の声をじっくり聞く姿勢がなかった。住みやすい災害公営住宅や景観を大事にしたまちづくりなど、これからは私たちが行政に働きかけたい」
■合意形成につまずく教訓
なぜ閖上復興で住民の気持ちはまとまらなかったのか。
東北大の小野田泰明教授(建築学)に聞いた。
復興は複雑な公共事業。合意形成には、そこに住む人のほか、農業など生業を営む人がかかわる。地域コミュニティーの特性の理解に基づき、(1)適切な情報の提供(2)住民の積極的参加(3)民意を計画に反映させる仕組み――の三つがかみ合わないと難しい。
うまくいった自治体もある。
宮城県七ケ浜町では、町職員が総出で被災者への対面ヒアリングを行った。資産状況を聞き取り、補助制度の情報を伝えるなどして住まい再建の相談に乗った。災害公営住宅の数を適切に管理している。
同県
岩沼市では、被災6集落を1カ所に移転させる計画が進む。地区ごとに各層からなる
ワークショップを二十数回繰り返し、住みやすい環境を実現しようとしている。
名取市も、市民誰もが議論に参加できる「100人会議」という組織をつくったが、フォローが不十分だった。中立の立場で住民と行政のコミュニケーションを助ける、学識者の関与も薄かった。私たち専門家を含め、多くの教訓を残したと思う。
◇閖上地区の再建は市の方針を議会で可決したが、その後の住民の要望との齟齬が埋まらず、二転三転し事業認可へと進んでいる。計画変更の議会からの意見も「無視」した街づくりである。
◇市長は「被災者の意見を聞くだけでは、将来に責任を持ったまちづくりはできない」というが、民意(被災者の意見)は何処へ行ったのか?将来の街づくりの責任とは、市長自らとるのであろうか?国税を投入した、再興計画である。その計画には、被災した市民の思いと、全名取市民の街づくり計画が反映されることが必要かつ需要であると考えるのだが、そうではないのか?はなはだ遺憾である。
◇充分な議論がなされず、合意の無い計画は将来へ禍根を残すだけであり、市民を愚弄するだけである。本市は何時から「独裁政治」がはびこってしまったのか。
◇津波の中、自宅2階に取り残された恐怖が消えない。「閖上は大好きだが、もう戻れない」。行政が考える「安全」と住民が求める「安心」とは隔たりがあった。という言葉に、どのようの答えるのか?安心を、優先させるべきではないのか。
◇合意形成の問題点として、どのように行なったのか。識者は以下3点を指摘する。(1)適切な情報の提供
(2)住民の積極的参加
(3)民意を計画に反映させる仕組み
住民参加は行なわれていたのか。民意を計画に反映させる仕組みはあったのか。いずれも、住民からのヒアリングでは否定的な答えだけである。職員が総出で被災者への対面ヒアリングを行った形跡はない。
◇岩沼市のような地区ごとに各層からなるワークショップを二十数回繰り返し、住みやすい環境を実現しようとしている。このような取組みも、残念ながら行われなかった。
◇何が不足していたのか、都市計画審議会の建議が示す内容について、市には猛省を促したい。復興の住宅再建はやっと一歩を踏む出したばかりである。